ドイツに移籍して1カ月が経った頃、チームメイトのジョスエ(左)とは紅白戦で激しくやり合った【写真:アフロ】
代理人(当時)のロベルト佃さんから、こう言われたことがある。
「ハセのいいところは競争を怖いと思っていないこと。まあ、ヨーロッパや南米の選手なら、それが当たり前なんだけど、日本人では珍しいね(笑)」
ロベさんはアルゼンチン出身の日系人で、子どものときから本場のサッカーに触れてきたので、プレーを見る目がすごく肥えている。横浜F・マリノスの通訳や強化スタッフとして働いた経験があり、見た目は日本人なのだけれど、物の考え方とサッカーの見方は完全に“南米流”だ。常にレベルの高い要求をしてくれるので、すごく刺激になっていた。僕の他には俊さん(中村俊輔)や、アベちゃん(阿部勇樹)、長友(佑都)、岡崎(慎司)などの代理人を務めている。
僕がドイツに移籍したときには、「Jリーグでは上半身から相手に当たっていたけれど、ヨーロッパでは下半身でぶつかるイメージにした方がいいよ」とアドバイスしてくれた。
実際にドイツでそれを意識してみると、筋力トレーニングの効果もあって、だんだん激しいぶつかり合いでも耐えられるようになっていった。ブンデスリーガで2、3試合プレーしたとき、「下半身から当たれるようになってきてるね」と電話で言われたのが、すごく嬉しかった。僕が何を課題にしてプレーしているかも、いつも気がついてくれる。そういう観察眼を持ったロベさんが「競争を怖がっていない」と言うのだから、自分では意識していなかったけれどそうなのかもしれない。
ドイツに移籍して、ちょうど1カ月が経たった頃のことだ。当時マガト監督は僕を中盤のいろいろなポジションで起用し、右MF、左MF、1ボランチで試していた。1ボランチのレギュラーを務めていたのは、ブラジル代表のジョスエ。身長は169センチないが読みが鋭く、足下に矢のようなスライディングを仕掛けられる、守備能力の高いボランチだ。左MFにはドイツ代表のゲントナーがいるので僕自身は右MFに落ち着くのかな……と考えていた。実際、時間が経つにつれて、右MFでの出場が多くなっていった。
しかし、ある練習の紅白戦のとき、マガト監督は僕に1ボランチの位置に入るように指示した。僕はポーカーフェイスを保ちつつも内心驚いた。
当然、そこが定位置のジョスエは面白くない。紅白戦が始まると僕の存在を無視するかのように1ボランチの位置に入り込んできた。あたかも、ここはオレの場所だ、とアピールするかのように。
「ふざけんな、絶対にどかないぞ」
確かにジョスエは世界最高峰のボランチのひとりだ。ただ、いくら新入りだからといって自分からポジションを差し出すつもりはない。そんなことをしたら、ドイツに来た意味がなくなってしまう。それにこれは監督の指示でもあるから、僕から譲るわけにはいかなかった。
しばらくの間、2人が同じ場所にいるという異常な状態が続いた。組織のバランスなんてもう無茶苦茶。勝たなければいけない敵は相手チームではなく、チームメイトだった。
見かねたマガト監督が怒鳴った。
「ジョスエ! オマエのポジションはそこじゃない!」
形としては僕に軍配が上がったが互いに譲らなかったのだから、痛み分けだ。
その後、再びジョスエは1ボランチで起用されるようになり、僕は右MFが定位置になった。もしかしたらマガト監督は、僕を使ってジョスエに危機感を植えつけたかったのかもしれない。それでもあのときポジションを譲らなかったことは、「ハセベは頑固だ」と、チームメイトになめられないという意味で、すごく大きかったと思う。
競争を恐れない。むしろ歓迎する。そういう「競争ウェルカム」みたいな姿勢は、僕の特徴のひとつなのかもしれない。
ただし、もとから競争を楽しめたわけではない。どちらかと言うと、正面きって誰かと争うのは、苦手なタイプだった。
高1のとき、上品にプレーしすぎていて、サッカー部の服部康雄監督から「そんなチンタラやってるようなやつは、うちのサッカー部には要らない!」と、どやされたことがあった。高2の夏をすぎたあたりから試合に出られるようになったが、まだ自信があると言えるようなレベルにはなかった。
ガツガツするようになったのは高3のときだ。サッカー部の下の学年にいい選手がいっぱいいて、先発の11人中9人が2年生と1年生だった。つまり僕を含めて3年生は2人しかいなかったのだ。まわりの人たちからは「藤枝東の1、2年生すごいぞ」という評判ばかり聞こえてきて、それが悔しくて悔しくて仕方なかった。
夏まで僕は右サイドでプレーし、トップ下には2年生の翔(成岡)が入っていた。つまり彼がチームのエースということだ。けれど、翔がU-17日本代表の試合で一時期チームを離れたことにより、僕がトップ下を務めることになった。
そのとき僕は驚くほどに調子が良く、パスを出せばすべて通るし、シュートを打てばすべて入るという感じだった。結局、夏のインターハイでも引き続きトップ下を任され、代表から帰ってきた翔はFWをやることになった。僕は技術面で彼のレベルに及ばなかったけれど、トップ下のポジション争いに勝ったことで、大きな自信になった。
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May 02, 2020 at 07:59AM
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